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昭和21年、くるみ下稲荷で集まった
大通り商店街の実力者の人たち
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より (小倉氏提供) |
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それにしても、これらの商店主たちは、ヤミ屋街の繁栄を横目にみて腕をこまねいていたわけではない。早くも昭和21年、戦前の商栄会を復帰させる話し合いが、戦前の有力者であった瀬野元良氏、高野吉太郎氏、早川右一郎氏に加えて梅田静一氏、一色林太郎氏らの間でもたれ、翌22年2月には再発足させている(初代会長・瀬野元良氏)。これは現実には、まだ店を再開できない商店主がいるにもかかわらず、いわゆる無法の街となっている新宿に対して危機感をいだき、地元の商店が団結することによって、本来あるべき姿に早く立ち戻ろうとするいきごみを、言外にこめてつくったものだったようである。
事実、そういった組織をもとうとする意識が、連帯感を深め、同じ商栄会のメンバーである睦会の人たちのねばり強い抵抗にも通じていったのだろう。その件について、具体的に商栄会が動いた事実はないが、会員同士での相談や精神的な支援があったことは、充分に考えられよう。興味深いのは、商栄会の最初のメンバーの地域が、新宿駅前から三越までであったということで、これは、暗々のうちかもしれないが、この地域にとくに強い連帯意識が望まれたことを示しているのかもしれない。
実際のところ、この商栄会が三越以東の地域を加えたのが昭和24年、さらに新三会と新二会の一部を含んで、中央通り商店会と称するようになるのは、昭和25年である。というのも、昭和24年頃の新宿大通りといえば、ようやく実質的な物資の流通が活発となり、少なくとも現在の協和銀行まではひとつにまとまった新宿大通りの街景(昭和24年都電が協和銀行角より靖国通りに入って歌舞伎町を終点とする工事が行われ、大通りの軌道が撤去された跡は、昭和26年までにグリーンベルト地帯となる)ができ上がってきていて、いよいよこれから発展しようというときにあたっている。実質的にはこの時期が、かつての町区割にこだわらないで、ひとつのコンセンサスが生まれ、その意識の下に商店会が成立する下地をもった時期といっていいから、やはり、商店会最初の結成の動機には、より切迫した気持ちの動因が強く働いていたと考えなければならないだろう。
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昭和25年の新宿大通り。両側に露店が並ぶ
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より(東京都『露天』より) |
露天の夜店
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より(東京都『露天』より |
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それに比べると、新二会、新興会といった商店会の地域は、戦後の商店街区形成がよりおだやかに行われたためか、商店会結成の気運が実質的に高まった昭和24年、両者合同した形で行われている。そして、ここでも、戦前は新興会と新二会と別れていたではないかといいだす人もなく、一同異議なく新二会でまとまるのである。もはや、戦前のいきさつにこだわる気にも、こだわる必要もなくなっていたのであろう。ただこの時点で、新三会と商栄会を含んだ中央通り商店街と新二会とが別別に成立したという点については、それなりの理由が考えられねばならない。
すなわち、中央通り商店街と新二会の2つの商店会には、大正末以来戦前の昭和時代を通じて、商業街区としての性質が異なってきており、戦後の復興にもその違いが同じように現われて、おのずから戦後の商店会をつくるときの意識の違いとなっていたことは否定できないからである。たとえば、新二会の地域は、大正10年、新宿遊郭街の二丁目裏地への移転によって、まず歓楽街としての要素をうすめ、新しい遊郭街に対する副次的なサービス区域、つまり、飲食店や遊郭女性相手の衣裳店といったものを残すだけで、他は、四谷塩町(明治中期以降の山手地区繁華街)につながる旧東京市内山手地区を得意とする店舗に転ずるか、もしくは問屋に転進している。しかも、昭和時代に入ってから爆発的に増大してきた新宿の購買人口も、昼間は、京王電車ビル(新宿三丁目)までの流れでしかなかったから、時代の急激な変化を受けることが少なく、それだけに安定した商業区となっている。
ちなみに、明治、大正、昭和を通じて今日まで営業を続けてきたこの地区の店舗をみると、寝装品の中村秀(明治41年)、石黒飴店(大正2年)、射的遊技場だった新倉商店(大正2年)、呉服店だった渡六商店(大正7年)、酒の一色(大正10年)、畳材料を扱ってのちインテリア材に転じる木原商店(大正11年)、大工道具の大江山(大正14年)、刀剣のなまづ屋(大正15年)、学校服センター(昭和6年)、毛皮専門店のミヤウチ(昭和6年、ただし7年に追分に移転)、オートクチュールのヤコボ洋装店(昭和10年)、甲州屋呉服店(大正12年)、明治鉄砲火薬店(昭和10年)といたっところがあげられるが、こういった店に共通する性格は、地域性が強いこと、生活レベルの高い特定客を対象としていることである。この点は、戦後についても同じようにいえることで、小沢商店(昭和20年)、斉藤商店(昭和21年)、シルバー洋装店(昭和23年)、丸福商事(昭和23年)、清雅堂(昭和23年)、山本商店(昭和24年)、松栄鮨(昭和25年)、
東称鋼業(昭和25年)、アリサ洋装店(昭和27年)、笹屋呉服店(昭和28年)、新宿堂時計店(昭和28年)、大月洋服店(昭和29年)、富士時計店(昭和32年)、龍王堂(昭和33年)、きもと(昭和33年)などは、特定客の専門店か、あるいは問屋であることがその特徴となっている。
新宿駅から三丁目にかけての店が、いわゆる新中間層の需要に対応して業種を変転することで生きのびていったとするなら、新宿二丁目の店は、むしろ特定客に対する安定した信用こそが、今日までつづけてこられたことのひとつの特徴といえようか。いずれにしても、このような違いは、第二次大戦後の商店街復興の差にもなって現れている。
具体的にいえば、まず遊郭街の復興があり、ついで四谷、牛込を中心とした新宿周辺の住宅地域の再建が、ほぼ戦前の7割近くに達した昭和24、5年になって、はじめて商店街としての内容と体制をととのえてくるのである。つまり、新二会にとっては、この時期が商店会再興の気運の出てくる時期となるわけである。またあるいは、新宿大通りの2つの商店会の地域性の違いは、敗戦直後の治安関係についてもいえることで、中央通り商店街の地域は、いわゆる無警察状態といってもいいほどの状態が、昭和23年まで続いたのに対し、新二会区域では、いち早く新宿二丁目町会が四谷警察と組んで治安維持にあたるといった体制をとっている。この地域に戦災をのがれた店舗が多かったせいもあった(戦前の70%近く残った)だろうが、敗戦直後の混乱期の影響を受けることが少なかったところから、治安回復の体制もスムーズにいったということは、充分考えられるところである。
こういった2つの地域の商店街としての性質の差が、それぞれの地域内の商店会をまとめながら、新宿大通り全体をつなげるところまでいかせなかった理由となったようだが、それにしても、昭和24年のこの時期、新宿大通りはようやく商店会の体裁もととのうこととなり、戦後の新宿の繁栄に向かってスタートすることになったのである。もちろん、それは、この昭和24年から25年にかけて、新宿大通りの街景も本格的な建築とはいえないまでも、一応の体裁をもつ店舗が出揃い、宿願となっていた露店廃止が指令され、衣料品をはじめとする多くの統制物資が解除され、とにもかくにも、正常な商業活動が行われるようになったという「名」に対して「実」がそなわってきたからである。実際、この時期、新宿以外の地域でも商店会が多く結成されている。
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清雅堂の移り変わり
昭和25年→昭和30年→昭和48年
昭和48年に衛光堂、壁装館などとともに
大通り初の共同ビルを建て、清雅堂画廊となる
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通280年史』より(清雅堂提供) |
昭和26年頃のコタニ
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より
(コタニ提供)
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