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戦争が激しくなると、
街では千人針を乞う婦人がふえてきた。
昭和16年頃、三越新宿支店前にて
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より(竹下信子氏提供) |
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明治以来、近代社会のもたらすあらゆる好機をものにして膨張してきた新宿も、戦争だけには勝つことができなかった。
昭和十年代は、新宿にとって戦争の影響を強く受けながら逼塞していき、ついに破壊する時代にあたる。新宿にとっての第四の時代は、「線」から「面」へと発展してきた町が一時「白紙」に戻り、その白紙にでたらめの図が描き込まれる時代であり、これが昭和25年くらいまで続くことになる。
その徴候は、すでに満州事変(昭和6年)あたりにみられる。これを契機に、戦時景気が支那事変(昭和12年)あたりまで続く間に、新宿は若い層のうっせきした気分の捨てどころとしての遊興街を完成させる。実際この時期に、三越裏の地域で甲州街道と新宿駅とに囲まれた三角地帯、二幸裏で靖国通りに至る地帯、あるいは新東宝裏で二丁目遊郭街に至る地域といった、いわゆる興行、飲み屋が集中する夜の遊興街が、ほぼ今日のようにいっぱいになってきている。
しかし、表面的には最も経済力の高い賑わいをみせたともいえる新宿も、時代はすでに暗転し、支那事変がはじまると事態は急速に変化する。新宿大通りでいえば、軍事産業優先の建て前から、早くも純綿製品が禁じられて衣料品の供給が減少し、物価の暴騰が続いた。昭和13年販売価格の統制および石炭の配給統制があり、ヤミの取引が行われるようになっている。
一方、商店主や従業員の出征が相次ぎ、少人数での営業が多い新宿では営業活動に次第に支障をきたすようになってきた。そして木炭、石油の配給制となり、エネルギーのすべてが統制される。ついで新宿大通商店街にとっては致命的ともいうべき、衣料や砂糖、乳製品、生鮮物の統制および配給制度が行われ、奢侈品の製造・販売禁止が加えられ、食堂や料理店での米飯提供が禁じられて、ほぼ新宿の正常な経済活動は停止する。
またこの年、ダンスホールの禁止もあって、帝都座五階のダンスホールも姿を消した。太平洋戦争に入る前に、新宿大通りは繁華街のメインストリートとしての実質を失っていたといえよう。そして、最後に米軍のB29爆撃機のじゅうたん爆撃によって、新宿の街景そのものも消失した。最終的に新宿大通りで残ったのは、二丁目の一部と高野、三越、伊勢丹、二幸、帝都座といった少数のビル建築に過ぎなかった。この時期、新宿駅に立つと一面焼け野原で、新宿御苑の緑だけがいやに鮮やかに間近に見えたということである。
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昭和15年頃の戦時色濃い伊勢丹の広告
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より(伊勢丹提供) |
昭和18年頃の伊勢丹の広告
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より(伊勢丹提供) |
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昭和16、17年頃から出征兵士を送る姿が
新宿大通りにもみられた。甲州屋呉服店前
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より(神田厚氏提供) |
終戦直後の焼け野原となった新宿大通り。
右が三越、左が伊勢丹。
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より(『新宿区史』より」) |
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