新宿大通り
ENGLISH 한국어 繁体中文 簡体中文 JAPANESE

新宿大通商店街振興組合

 
ホーム
 
ライブカメラ
 
新宿大通りショップ検索
 
新宿大通りの歴史
序章
第一章 江戸時代
第二章 明治・大正
第三章 戦前・昭和10年前後
第四章 戦時中〜昭和三十年代
第五章 〜現代
新宿盛り場地図
 
理事長のごあいさつ
ショップ情報ページ参加会員
駐車場マップ
リンク
 
新宿大通りの歴史

第二章 明治・大正 明治の新宿通り
[1] 新宿が物資輸送の中継地点に
[2] 新需要層に娯楽性と商品を提供
[3] 洋画を好む新中間層が新宿に集中する


[1] 新宿が物資輸送の中継地点に

BackNext
明治34年頃の新宿大通り
日向ぼっこしたり悠長に往来で子どもたちが遊んだり、
新聞なども読めた明治34年頃の新宿大通り
(三宅克己著「籠の中」より)
明治20年頃の新宿西口附近
明治20年頃の新宿西口附近。25年から淀橋浄水場の
工事がはじまり、32年に完成する(新宿区資料室提供)

 明治時代から関東大震災(大正12年)までのほぼ50年余りの期間の新宿は、都市的にみるとまだ「線」の時代である。しかしながら、江戸時代のそれとは違い、わが国の近代化の影響が最も集中して反映し、今日、世界でも最も巨大な繁華街となっていく、その準備期間と言う意味をもつ。

 まず、幕末から明治5年くらいまでの新宿の変化は、明治政府自体まだ充分にその体制を整えきっておらず、近代化の諸施策も行われていないという点で、新宿の町筋そのものは江戸時代の延長である。ただ決定的に変化したのは、江戸幕府の崩壊とともに、徳川氏直属の武士らが食禄と離れたり、徳川氏の本来の封地である静岡に帰ったり、大名屋敷の召し上げ、江戸詰武士の帰郷といった背景があり、町筋以外の内藤新宿および角筈村で、町民住区以外の武家屋敷のほとんど全てが廃されて、荒蕪化していったということである。したがって、新宿の街はそういった荒蕪地の中に一筋の家並みをポツンと残した場末町ということになる。

 かつて江戸時代の人口のピークが120万人と推定されているが、この時期東京の人口が50万人にまで激減した。しかもその人口減の大部分が、山手地区に住んでいた武士階層である。

 一方、内藤氏がもともとの下屋敷地を引き払い、明治5年、現在の新宿御苑に勧業寮試験場が設置された。これは、主として牧畜や養蚕を奨励するもので、のちの農事試験場の前身にあたる。新宿は東京西郊にあって、こういった産業開発の拠点として位置付けされようとしていたと考えられる。

 また明治4年、職業選択の自由と農耕地の作物選択の自由が認められ、武蔵野台地の農作地帯は、商品作物に転換する傾向が強まり、新宿周辺の武家屋敷の跡地のほとんどは、桑や茶畑あるいは牧場として開墾されはじめる。蚕の取引市場が生まれ、さらに四谷丸太と称しや杉材が有名となった林業があり、材木屋で取り引きされていた。勧業寮試験場には牧畜の部門があり、当時としてはきわめてハイカラな産業である牛乳需要をまかなっていたのである。


明治20年代後半にできた耕牧舎牧場の全景
明治20年代後半にできた耕牧舎牧場の全景
(新宿区資料室提供)
明治38年頃の新宿駅構内を走る汽車
明治38年頃の新宿駅構内を走る汽車
新宿歴史博物館絵はがきより
新宿停車場
新宿停車場(「新宿駅80年のあゆみ」より)
甲州街道口にあった新宿駅
明治40年頃、甲州街道口にあった新宿駅
(「新宿駅80年のあゆみ」より)
 

 こういった新宿の一面は、明治10年頃までがピークで、以後次第にその要素が失われる。そのかわり明治十年代頃から、新宿が東京の西の勝手口として物資の集散拠点の役割を果たす力が次第に大きくなっている。明治維新以降の混乱期を抜け、商工業の発展が東京全体にみられるようになり、物資の流通が盛んになってくるためだが、明治二十年代にかけての新宿大通りの輸送量は大変なものだったらしい。

 その状況をもっとも顕著に現したのが、明治18年と22年の鉄道開通である。明治18年には、現在の山手線に相当する赤羽・品川間の開通、22年には現在の中央線に相当する八王子・新宿間の開通がみられた。当時は、山手線の新宿駅(当時は内藤新宿駅と呼ばれていた)の乗降客がたった2人の時もあったといわれるように、もっぱら貨物輸送のための要請から施設されたものである。

 明らかに、荷馬車運送という前近代的な手段を、鉄道輸送に切り替えることで近代化しようとする動きが、その重要地点として新宿を選んだということは、この頃すでに新宿という町が、物資輸送の中継拠点として充分に成熟していたことを物語っていよう。実際のところ、この時代には新宿駅に降ろされる荷を東京市内に運ぶ運送店や薪炭店などが、新宿大通りの駅寄りに顔を出している。またそういった荷を扱う馬子、荷役夫、あるいは駅の乗降客相手の掛茶屋や果物屋なども店を張りはじめている。今日残っている店で、紀伊国屋書店と銘酒大阪屋はともに、当時薪炭屋であり、今日の高野が明治18年に果物店をはじめているといったケースは、その一例である。明らかに新宿駅がこの新宿大通街に影響を及ぼしはじめたことを示している。


明治40年頃の新宿駅ホーム 明治38年頃の新宿駅
明治40年頃の新宿駅ホーム 明治38年頃の新宿駅
(『中村屋100年史』から)
 


 明治36年に四谷から延びてきた東京市電が新宿大通りの追分まできて、翌37年には、いまの中央線が飯田橋まで延びると同時に電車を走らせるようになり、さらに42年には山手線も電車となり、日常的に近距離を異動する客の増大に対応した。いわばこの頃から新宿は東京の郊外住宅区域の中心地、ターミナル駅としての地位を高めていくのである。

 一方、内藤新宿とそれに隣接する新宿大通街の様子はどう変わっていたのだろうか。


明治35年頃の駅前どおり
明治35年頃の駅前どおり

BackNext
[1] 新宿が物資輸送の中継地点に
[2] 新需要層に娯楽性と商品を提供
[3] 洋画を好む新中間層が新宿に集中する

序章第一章 江戸時代第二章 明治・大正第三章 戦前・昭和10年前後第四章 戦時中〜昭和三十年代第五章 〜現代
新宿盛り場地図

   
COPYRIGHT©2005 SHINJUKU OHDOORI SYOUTENGAI SHINKOU KUMIAI ALL RIGHTS RESERVED.