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淀川水車「江戸名所図絵」 |
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向かって左に「淀橋」が描かれています。その左下には「淀橋の水車」があり、橋と水車小屋の間にお成門があります。この門は将軍が鷹狩りの時に立ち寄るだけに使われたことから、お成門といわれました。また、この往来は青梅街道で街道の背景には農村風景が描かれ、江戸近郊農村といわれたこの地域の特徴がよく描かれています。
近郊農村のひとつの特色は、江戸の町が拡がり、農村でありながら町場化しているという点にあります。渡辺家文書(角筈村名主)からその様子がわかります。
江戸時代、武蔵国豊嶋郡角筈村は「新編武蔵風土記稿」(文化7年〜文政8年 1810〜1871年)によれば、以下のような村況であったことが解ります。
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戸数:608戸
東西:15町
南北:8軒
東は内藤新宿
西は幡ヶ谷村
南は千駄ヶ谷村と代々木村
北は成子町と淀橋町
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また角筈村「村差出明細帳」文政8年正月によると、村の範囲は大体、現在の新宿駅付近から高層ビル街、熊野十二社を含むあたりまでと思われます。
角筈村の位置
角筈村は江戸日本橋から約2里に位置し、江戸との堺(御府内場末)にありました。四谷大木戸から18丁で、内藤新宿宿場町に隣接するところから江戸近郊の村としての特色のある農村でした。
内藤新宿にたいしては、助郷人馬を提供する助郷村でもあり、そしてまた東海道品川宿や、中山道板橋宿の助郷も負担したりしました。
内藤新宿に宿駅が開設した元禄12年(1699年)ですがその後享保3年(1803年)に廃駅となったその間には、品川宿の助郷なども負担していました。この他付近の幕府焔硝蔵にも必要とあれば人足を差し出していました。
村は畑作が中心で農作物としては、麦、稗(ひえ)、黍(きび)、蕎麦、芋、大根などがありました。その他、煙草や菜種も畑地に作られていました。
また村内にある熊野十二社やその近辺は江戸近郊の名所として広重の「名所江戸百景」に長谷川雪旦の「江戸名所図会」などに紹介され、この地を訪れる観光客に、茶や飯などを売る商屋もできて、商業地として拍車をかけるようになりました。このようにして、少しずつ角筈村は変わっていきました。加えて明暦の大火以後、武士たちが移り住むとともに少数ではありましたが商人も移り住むようになったことも村に影響を与えたことと思われます。
江戸時代の角筈村は、一般的な農村でした。これにたいして江戸の町には多くの武士や町人が住み、その人々の生活のため、商業が盛んになっていきます。そこで生産物の供給地として角筈村は江戸と結びつきました。またその生産物の肥料を江戸から受け入れるといった仕組みの中で江戸の周辺農村として存在を確立しました。さらに江戸の町の人々の行楽地として江戸周辺の名所としても角筈村は江戸に結びついていたのです。
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