この農民層は内藤新宿のそれなりに有力な顧客層であったと同時に、新宿大通街の形成にも大きな役割を占めている。内藤新宿の街路の延長線上、追分から西の甲州街道および青梅街道沿いの両側に、さまざまな店を出すかまたは店舗の賃貸しを行う農民も多く見られる。いわゆる角筈村や柏木村に相当する地域の農民の耕作面積が比較的小さいことから、兼業のひとつとして行われていたようである。
この時代から今日まで続いている店はないが、文化年間の記録による店舗の営業内容は、内藤新宿が茶屋や旅籠を主力にしているのに対して、その宿駅機能に付随する業種、馬具屋、足袋下駄屋、髪床屋、馬宿糟食屋があり、これに加えて近郊農民もしくは新宿そのものの需要を対象とする種屋、小間物、瀬戸物、塩干魚屋、古道具屋、桶屋、さらに炭屋、八百屋、豆腐屋、米屋、酒屋、建具屋、油屋、植木屋などがある。
このことから、新宿はすでにこの当時、江戸西郊にあって、少なくとも今日の都区内(中野、豊島、渋谷区)の範囲内での一中心地であったことが理解される。
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