新宿の第三の時代は、いわゆる「面」の時代である。新宿が「面」となるきっかけは、皮肉にも大正12年の関東大震災であった。東京に未曾有の災害をもたらした関東大震災だが、下町などに比べると、新宿の被害は甲州街道の南側を一部焼いただけで、街としての機能はまったく無傷だった。
新宿では明治末から大正時代前半期にかけて、日本の近代化を実質的に推し進める中間層が次第にその顧客層となりつつあった。この層は、郊外に家を構えて都心に通勤するタイプである。関東大震災は、江戸時代以来特別な都市計画もなかった東京に、中間層がこのような生活形態を選ぶチャンスを与えたといってもいい。
震災後、新宿周辺地域の住区(大久保など)は、縁故の被災者を受け入れて一時的に三倍以上の人口となった。これらの人たちにとって、将来の被災を考慮したうえでの住宅の敷地を求めるとしたら、まず新宿を中心にした地域もしくは新宿に通じる鉄道沿線の地域に求めようとしたのは、ごく自然なことだったろう。
こうしてできた新宿後背地における新住民層の生活形態は、当主やその子弟たちが通勤や通学で常に都心に強く結びついていて、住む場所もしくは町との結びつきが薄い。いいかえれば、鉄道やバスがあってこその住民であり、消費性向も都心指向型であるという特徴をもつ。
とくに、家庭の主婦あるいは子女の層に、この変化が著しかった。彼女たちの生活感覚は、いわゆる"大正モダニズム"の欧米主義と合理主義の洗礼を受けたものであるから、このような感覚を満たすための商品を積極的に求める欲求が強かった。
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大正2年の新盛堂
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より(新盛堂提供) |
3階建てに改築中の新盛堂
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より(新盛堂提供) |
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大正14年安藤商店の上棟式。
右隣にすでに完成した3階建ての
新盛堂が見える。
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通280年史』より(安藤商店提供) |
大正10年の新宿大火
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より
(『歴史写真』より) |
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大火による焼失範囲
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より
(『歴史写真』より) |
大火で新宿御苑に避難した人々。
宮内省が大天幕を設け、
4千人分の炊き出しをするなど大混乱を呈した。
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より
(『歴史写真』より) |
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