金子さんちの今夜のおかずは何かな?
昭和10年(1935年)頃の落合で、借家住まいをしている若いサラリーマンの家をのぞいてみましょう。そろそろ夕暮れ時です。
この文化住宅に住んでいるのは、地方から出てきた大学出のサラリーマンとその家族です。夫婦はまだ30代前半で、幼い子供が二人います。丸の内に勤めるお父さんは、通勤で新宿駅を利用し、月給は100円です。その中からこの借家に毎月家賃を18円ぐらい払い、食費には30円ほどかけています。
お茶の間から聞こえてくるラジオは、当時大人気の広沢虎蔵の浪曲『石松と三十石船』と、神宮球場における早稲田対慶応の大学対抗野球の実況中継です。ラジオ放送は大正14年(1925年)に始まりました。
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落合に開発された目白文化村
(図、画像とも「新宿歴史博物館 常設展示解説シート」から) |
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広がる郊外の住宅地
大正の末から昭和の初めにかけて、当時はまだ郊外であった山手線の西側にサラリーマンのための住宅が次々と建ち始めていました。
それはこの時期に新宿・渋谷・池袋などを起点とした郊外電車の交通網が形成され、それに合わせて鉄道会社が沿線の宅地開発を進めたためです。関東大震災で被害の大きかった下町の人々や、地方から東京へやってきた新市民が、すでに住宅不足で飽和状態だった旧市域(東は本所・深川から西は山手線の内側あたりまで)から、新しい住宅を求めてその郊外の沿線に住み移っていきました。その頃開発された住宅地に、目白文化村や田園調布、大泉学園、成城学園、国立などがあります。これらの住宅地には、本格的な洋風住宅が多く建てられていました。それらは、ちょうどその当時の大正デモクラシーの高揚を背景にした、生活の洋風化と合理化を進める生活改善の動きを反映したものでした。
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復元した文化住宅のモデルとなった
「便利で住みよい模範的な中流住宅」
(『主婦之友』昭和3年2月号)の小住宅の間取図
(図、画像とも「新宿歴史博物館
常設展示解説シート」から)
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同 書斎兼応接間
(図、画像とも「新宿歴史博物館
常設展示解説シート」から) |
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あこがれの文化住宅
そうした住宅にあこがれた人々が、せめて一部屋だけでもと、小さな和風住宅に洋風の応接間をつけたのが「文化住宅」です。それらは、大体取って付けたように玄関のすぐ脇の外からよく見える位置につけられていました。当時のサラリーマンにとっては、こうした赤や青の洋瓦をのせた洋間のある家は、ひとつのステイタスシンボルでもあり、若い世代にはあこがれの的でした。
サラリーマンの生活
まず洋間は来客の時にだけ使い、そこへ子どもたちが勝手に入って遊んだりはできませんでした。また、ふすまと障子だけで区切った田の字型の住宅に替わって、「中廊下式」の住宅が多くなりました。中央に廊下を挟んでその両側に部屋が並ぶので、個々の独立性が高まり、お客様も家の内部を見せずに応接間まで通せます。しかし食事をする部屋で夜は寝るなど、まだ完全な専門分化はしていません。台所は座り流しから立ち流しになり、地域によっては水道やガスが通じ始めました。
食事もこの頃から、カレーやコロッケ、パンなどの洋食が少しずつ食卓に上るようになりました。そして洋服も、サラリーマンの仕事着として定着し、また子供には外出着用に買ったり、普段着をミシンで作ったりするようになりました。しかし普通の主婦は、なかなか洋服を取り入れるようにはなりませんでした。
このように普段の生活の基本は、相変らずの和式の生活でした。
そのふところ具合は?
ところで、月収を75円から100円もらっている当時の「銀行・会社員」の家計では、遊びに使えるお金である「修養娯楽費」は月々平均7円(昭和11年統計)でした。当時白米10sが2円50銭の時代です。修養娯楽費には、新聞代<月額90銭>やラジオ放送受信料<50銭>も含まれています。たとえばサラリーマンに人気のあった月刊雑誌『キング』<50銭>や『改造』<80銭〜1円>を買ったり、新宿武蔵野館の洋画<50銭>やムーラン・ルージュ<割引時間35銭>を観にいき、喫茶店でコーヒーを一杯<15銭>飲むと、合計4円近くなります。月平均金額の7円の半分にあたります。
この頃から休日に家族揃ってデパートへ買い物に行ったり、私鉄沿線の遊園地に出かけたりするようになりました。 |