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新宿大通りの歴史
序章
第一章 江戸時代
第二章 明治・大正
第三章 戦前・昭和10年前後
第四章 戦時中〜昭和三十年代
第五章 〜現代
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新宿大通りの歴史

第三章 戦前・昭和10年前後 爆発する新宿のエネルギー

[1] 関東大震災をきっかけに「面」の時代へ
[2] [コラム] サラリーマンと文化住宅
[3] 商圏が荻窪、吉祥寺まで伸びる
[4] 四デパート進出で大商業センターに
[5] 地価の高騰で商店街にも変化が……
[6] 商店会活動の胎動とその重要性
[7] 中間層と若年層にもてた「夜の顔」
[8] [コラム] キネマの楽しみ/無声映画と武蔵野館
[9] [コラム] トーキー映画時代の到来
[10] [コラム] ムーラン・ルージュ新宿座
[11] [コラム] 昭和初期新宿うまいもの食べある記(1)
[12] [コラム] 昭和初期新宿うまいもの食べある記(2)


[10] [コラム] ムーラン・ルージュ新宿座
『新宿歴史博物館 常設展示解説シートより』

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ムーランルージュ新宿座プログラム
ムーランルージュ新宿座プログラム
新宿歴史博物館提供

赤い風車

  昭和の初期に馬糞横町といわれていた武蔵野館通りの奥、甲州街道の陸橋の手前右手にあった「ムーラン・ルージュ新宿座」は、屋根の上にその名の通りの赤い風車がくるくるまわる小さな劇場で、そこで上演される軽演劇とレヴューは、山の手の学生やサラリーマンたちの人気を集めていました。


ムーランルージュの風車 ムーランルージュ
新宿遠望、ムーランルージュの風車
(昭和12年頃) 新宿歴史博物館提供

ムーランルージュ
新宿歴史博物館提供

 

浅草軽演劇

  もと映画館だった新宿座にパリのレヴュー劇場名をそのままとった「ムーラン・ルージュ」という名の劇団が、初めて芝居とレヴューを上演したのは、昭和6年(1931年)12月31日のことでした。当時は、左翼演劇集団にたいする弾圧が厳しくなり、また一般商業演劇も盛り上がらない頃で、国全体が不況にあえぎ、次第に戦争へと向かいつつあるくらい空気に包まれていた時代でした。この暗い風潮に反発するように、人々は浅草のカジノ・フォーリーの新しいレヴューと軽演劇に熱中し、そのスターであるエノケン(榎本健一)やロッパ(古川緑波)、シミキン(清水金一)らが笑いを振りまく玉木座、金龍館、常盤座などに拍手を贈っていました。玉木座で支配人をしていた浅草オペラ出身の佐々木千里は、このレヴュー流行の風潮に目をつけ、山の手のインテリ層を対象に、当時目覚しい発展ぶりを見せていた新興の街、新宿に旗揚げしたのが、ムーラン・ルージュでした。

ムーラン旗揚げ

 ムーラン・ルージュは、当時新興芸術派として脚光を浴びていた作家の龍胆寺雄、吉行エイスケ、楢崎勤を文芸部の看板として顧問に迎え、カジノ・フォーリーの文芸部長だった島村竜三を実質上の責任者としてスタートしました。開演当初はカジノや玉木座の再演が多く、客足も芳しくなかったため、経営難で佐々木が競馬で当てた金を座員の給料にまわしたというエピソードも残っています。

ムーランルージュの舞台写真
ムーランルージュの舞台写真伊馬鵜平作「桐の木横町」左より望月美恵子(優子)、有馬是馬、轟美津子、春日芳子、水町庸子、明日待子、森野鍛冶哉
新宿歴史博物館提供

小粋な"ムーラン調"

 そして、昭和7年(1932年)12月にムーランの歌手・高輪芳子が新宿のアパートで青年文士とガス心中を図った事件がジャーナリズムに書き立てられ、ムーラン・ルージュの名が一躍世間に広まりました。ちょうどこの頃からムーラン独特の作風が生まれ、爆笑スターで売る他の劇団とは異なる脚本の感覚の若さ、垢抜けした演出の魅力が学生たちをひきつけるようになりました。中でも村山知義から"日本のルネ・クレール"と評された伊馬鵜平(のちの伊馬春部)は、特にドラマチックな劇筋は持たず、ごく平凡な小市民の生活をスケッチしながら、ほのかな哀愁と社会に対する諷刺を込めた"ムーラン調"といわれる新喜劇を生み出しました。このような当時のムーラン・ルージュを、キネマ旬報では次のように紹介しています。「兎に角、気のきいた劇団である。(中略)作者の感覚、俳優の演技、背景、照明総てが小粋で小味である。総て小という字のつく感じのものである。小といった処で決して軽々しい意味ではなく、寧ろ仏蘭西人の好んで使う愛称の意味を持つMon Petitのそれである」(昭和9年12月11日『キネマ旬報』No.101石見為雄)

ムーランルージュ最盛期の文芸部員
ムーランルージュ最盛期の文芸部員
新宿歴史博物館提供

満員御礼「空気、めし、ムーラン!」

 舞台は間口4間、奥行き2間半(1間は約1.8m)しかない、定員430名の小劇場に、満員の時には立見席にぎゅうぎゅう詰め込まれて800名余りも入りました。一日3回公演が休みなしに10日ごとに替わります。昼間は安い一階席に学生が満員で、いつしか大学ごとに座る席が決まってきて、バラエティーに六大学の応援歌が盛り込まれたりしました。また、入場料が半額になる午後8時以降の割引時間には、必ずその回に最も評判のいい芝居とバラエティーが上演されます。それを観ようという客で8時前には武蔵野館の先までキップを買う長い行列ができました。バラエティーの中の一座の名物"ムー哲"ことムーラン哲学は、大学教授に扮した人気俳優が客を学生に見立てて世相を皮肉った珍妙な講義をするというもので学生たちの支持を受けました。そして、正月には沢山の客が来るため、芝居のセリフをはしょって公演を一日8、9回に増やすので、わけのわからないまま終わることもありました。「空気、めし、ムーラン!」というムーランのキャッチフレーズには、人間にとってなくてはならないもの、という劇団の自負が伺われます。

 

戦争の影

 ムーラン・ルージュの全盛期であった昭和8年(1933年)初頭から10年(1935年)頃は、社会が次第に戦争へと追い詰められていく時代状況にあたり、若い踊り子たちのあどけないダンスと若い文芸部員の書く都会的で軽妙な諷刺喜劇は、正面から抵抗する手段を持たなかった当時のインテリたちにとってせめてもの憂さ晴らしの場として受け入れられたのです。その後もムーラン・ルージュは戦後のストリップショウの攻勢に敗れ閉鎖する昭和26年(1951年)5月まで、多くの優秀な作家や俳優などを世に送り出しながら、戦争を背景にした時代の中で人々に娯楽を提供しつづけました。


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