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昭和8年、新宿大通りの伊勢丹の雑踏。当時の風俗がしのばれる新宿大通商店街振興組合刊『新宿大通り280年史』より(伊勢丹提供) |
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昭和8年の中村屋
新宿歴史博物館提供
(高村光郎撮影。中村屋提供) |
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例えばその一例として、安田銀行(大正12年)の進出が新宿駅前にみられたことが挙げられる。いわゆる都市銀行が支店をもつということは、場景的にもちょっとした地方都市、あるいは郊外都市なみの場景を新宿にもたらしたことになる。それにもまして、銀行支店がここに店を構える必要を感じるほどに経済上の取引が活発していたことが重要である。また同じ頃、安田貯蓄銀行(大正13年)が新宿派出所を進出させ、第百銀行新宿出張所(昭和2年)、第一銀行新宿支店(昭和2年)、住友銀行新宿支店(昭和5年)、日本火災海上新宿出張所(昭和5年)、三和銀行新宿支店(昭和15年)がそれぞれ進出している。
新宿大通りの土地の値上がり具合も著しく、明治末から大正前半期にかけては年率数10%になって、その高騰ぶりが嘆かれていた。それも束の間、大震災後は毎年二倍、三倍の勢いで上昇し、昭和初期にはついに坪当たり万円台の大台に乗せている。このような地価の高騰にも関わらず、これに投資してなお利益を見込まれるだけの商品の需要が見込まれたということである。
しかも大正末から昭和6、7年のわが国の経済は、大震災後の一時的な好況の後には次第に不況が深まって金融恐慌となり、未曾有の経済不安をもたらした時期にあたる。その時期に地価をこれだけ押し上げる新宿の経済力には瞠目せざるを得ない。もっとも新宿大通りの商店街はこれ以降、中村屋、高野果実店、紀伊国屋といったすでに土地をある程度の広さで手当て済みの店か、もしくは資金力をもつ企業以外には、大型化することは少なくなっている。繁華街のメインストリートとして、意外に大型店が少ないのが、新宿大通りのひとつの特徴といえるが、このためであろうか。
あるいはまた新宿の地価の高騰は、大通商店街から飲食店を追放している。焼いも屋や駄菓子屋、うどん屋といった利の薄いものから転業ないし廃業していき、ついで夜間に重点のある飲食店などが横町に後退していくといった具合に、物品販売に比べて客の回転率が悪い飲食営業は、この時期新宿大通りから姿を消す。かろうじて残ったのは、土地をすでに所有し、すでに定評のある店(藪花軒)、時代の嗜好に投じたもの(早川亭、三好野、新宿で最も早く喫茶店を開業した中村屋)などに過ぎない。
またこの時期、近隣の日常必需品をまかなう八百屋や魚屋などの店が、急速に大通街から姿を消している。そしてそれに代わって登場するのが、新宿後背地の新住民層を対象とする物品販売業である。例えば、明治時代に鶏卵鳥肉を扱っていたトリイチはのちに飲食店に転業、さらにこの時期洋品店に転進(大正14年)している。またアメリカ屋靴店(大正14年)、若干遅れて同じ靴屋のタナカヤ(昭和3年)、ミヤウチカバン店(昭和6年)、カステラの文明堂(昭和8年)、額縁の世界堂(昭和15年)などの開店、あるいは薪炭商から書店に転業した紀伊国屋などがそれである。しかし製氷のコロンビア(大正10年)、襖紙表装材料の原田喜佐、万年筆の村瀬ゲンカ堂(大正年代)、食品の二幸(昭和5年)の各店もこの頃出店している。
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昭和初期のアメリカ屋靴店
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より(アメリカ屋提供) |
昭和12年高野果実店が3階建てに
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より(高野提供) |
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興味深いことに、第二次大戦後の混乱時に廃業せざるを得なかったような店は別として、今日まで健在な店舗をみていくと、それらはみなこの転換期にいわゆるホワイト・カラー族の需要に応え得た店ばかりだという点が挙げられる。これは新宿という街の性質そのものを語っているといえるだろう。
ただ、新宿大通商店街の質的転換が行われたからといって、また、わが国全体が不況にあっても新宿の経済活動が上昇期にあったからといって、新宿大通街はスムーズに発展していったわけではない。
確かに、新宿への需要の絶対量は昭和10年代まで増加し続け、その需要層はサラリーマン族であり、ある一定の金は落とし続けたが、当時彼らの給料は昇給が止まるか減給される時代。個人の支出能力はきわめて厳しい状況にあったのである。なるべく節約するか、買うにしてもできるだけ安く買いたいという購買心理が働いていた時代であるから、商店側の努力には非常なものがあったと思われる。
それが端的に現れたのが、デパート同士の競合もさることながら、その他の商店をも巻き込んでの安売り合戦である。もともと多品種の商品を不特定多数に大量宣伝して大量販売するデパートに対して、ある一定の少数の顧客に頼る一般商店が、価格的に劣勢に立たされる場合の影響は、非常に大きい。そのため一般商店の売上げは、軒なみ前年を下回る時期もあったが、資本力に差がある以上、安売り合戦に参加する不利は目に見えているところから、新宿大通りのこれらの店は専門店化する傾向を強め、特定顧客をつかんでいく方向で乗り切っている。中村屋の相馬愛蔵氏によると、この難関を地元商店の団結によって打開しようと話し合ったり、自分の店の商品をデパートにはないものにしぼっていくとか、デパートにない部門の例えば喫茶部を設けるといった手を打っている。これらの工夫は多かれ少なかれ、どの店でも行われたはずである。
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昭和10年頃のファッション・ショー。モガ、モボ時代の先端をいくものであろうか
新宿大通商店街振興組合刊『新宿大通り280年史』より(伊勢丹提供) |
昭和5年の駅前大通り
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より
(『大東京写真集』より)
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昭和7年頃の新宿追分附近。右がほてい屋、左が三越
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より(『大東京写真集』より) |
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このような努力は、新宿大通街の商店から、同じ洋品店であっても、なんでも屋的な店を駆逐していったはずである。そして、ある一定数の専門店に限られて安定する傾向を商店街に与えた。奇妙なことだが、昭和三十年代後半の新宿大通街の店舗と、昭和6、7年以降十年代にかけての、新宿の営業内容の内訳をみると、基本的なところで共通点がある。これは、安定期の新宿にとっての物販販売のキャパシティを示している。
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