新宿の繁華街としての性格あるいは、その発展と変遷についていままで述べてきたことは、主としてメインストリートである新宿大通りの「昼の顔」である。昭和6年のPR誌『大新宿』の記事では、「新宿の昼間の通行人は主婦や学生を加えた大群だが、夕方から入れ替わって出てくる群衆は、カフェや飲み屋を渡り歩くサラリーマンたちである」としているように、「夜の顔」の新宿を無視しては、新宿そのものが成り立たない。
同じ昭和4年刊の『郷土研究』誌による、新宿についての調査によると、新宿と呼ばれる地域の店舗の業種内容は、物品販売に関連して「昼の顔」に属するものが約450軒、レストランや天ぷら屋など昼の新宿にも通じる飲食店も含めてカフェ、バー、遊郭、映画館など遊興性のあるものが約190軒である。この実態は、あくまでも新宿後背地への生活用品供給センターであることに、基本的性格がある。またこの時点で、全体の三分の一近く、さらに昭和十年頃までにはこれを上回る割合になる歓楽性は、この時代の盛り場としてかなり特異な性格をもつ。その内訳をみると、例えば新宿二丁目の遊郭は53軒で、軒数でみるとかつての最盛期に比べて減っており、新宿全体の非常な膨張ぶりとはきわめて対照的だ。前代までの新宿への遊興客が遊郭をめざしたのに対し、明らかに質の変化がみられる。
当時の飲食店121軒中で、カフェ、バー、喫茶店などが54軒あり、新宿のカフェやバーは東京のどの盛り場のものよりもエロだといわれて注目され、若い平均的なサラリーマンか学生、あるいは貧乏な若い芸術・文学青年といった層が主力であった。このことは、紀伊国屋が昭和2年に書店に転業してからいくばくもなく東京市中で有数の書店になること、昭和5年に新宿大通りから現在地に移転した武蔵野映画館をきっかけにその後6、7年かけて続々と開館する映画館の多くが洋画上映館であったこと、また同じ時期に開場した新歌舞伎座(昭和4年)は、いわゆる歌舞伎の出し物ではやっていけなくなったこと、ちょっとしゃれてモダンなウィットに富んでいるが決して大芸術とはいえない小市民劇を得意とした「ムーラン・ルージュ」(昭和6年)が大歓迎されていることなどからも裏づけられる。
いうならば、新宿は近代化特有な中間層の生活需要を引き受ける一方で、その層の予備軍である若年層に、手軽な遊興を提供する街という特性ももっていた。新宿が昭和時代の50年余りを通じて常に若者の街といわれ、風俗的にも最も早い反応を示して時代をリードするといわれてきたのは、まさにこの層が、絶えず新陳代謝しながらその数を増やし、この新宿に集中してきたからである。
そして、ここで青春を送った若者は、家庭を持ったのち再び新宿のメインストリート、新宿大通商店街の新しい顧客として再生産されていったのである。新宿が銀座や浅草と違って、時代の変化に絶えず対応しながらエネルギッシュな街として再生した、稀有な街であり得るのも、そのためであろう。
なおこの頃、大通街には新宿病院(昭和10年)、いさみや(昭和13年)、追分だんご本舗(昭和15年)などが進出してきている。
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