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大正13年頃の新宿大通り
新宿歴史博物館提供 |
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大正12年頃の京王新宿追分終点
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より(高松吉太郎氏蔵) |
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こうして新宿は後背地の新住民層にとって、日常的に不可欠な街として成り立っていく。そして新宿の繁華街としての発展は、またわが国の歴史上でもまれにみる劇的かつ爆発的な発展として現れたのだった。
大正10年から昭和4年までの約10年間の、人口増加の倍率をみると、高円寺は40倍以上、阿佐ヶ谷は60倍、荻窪で10倍であり、この地域の都心志向型の人口がいかに爆発的に増加していったかがうかがえる。そして昭和13年、新宿が経済的に戦前のピークに達するとき、これらの住宅地域による省線利用客もほぼピークに近くなり、新宿の商圏がこの時期、荻窪ないし吉祥寺あたりまで伸びたことを示している。
こういった客を集積した結果が、早くも昭和5年、新宿駅の乗降客数でみて一日あたり20万人を越え、当時新宿に乗り入れた小田急(昭和2年)、現在の本社ビルに駅を移した京王線(昭和2年)、西武新宿線(大正11年)、市バスなどを加えると、40万人以上という実績となって現れる。新宿はこのとき繁華街としての外観や実質はともかく、少なくともわが国で最大の人出をみる街となっていたのである。
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昭和初期の京王線四谷新宿駅。
現在の京王帝都電鉄本社ビル下
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より
(京王帝都電鉄提供) |
新宿大通りを走る車(昭和8年)
新宿歴史博物館提供 |
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この時期の東京府における人口の職業分布をみると、いわゆるホワイト・カラー族の四分の三以上が、新宿を中心とした東京西郊地区に集中している。しかも、東京府全体の人口密度の重心が明らかに西に傾いてきており、新宿はその中心点に近づきつつあるという点が指摘されるのである。
つまりこの時期、東京が大正後半から昭和10年にかけて明らかに近代化の反映による構造的変化をみせ、その変化の中心点に新宿があったことを示している。わが国における近代都市の発展過程の歴史をマクロにみても、まさに新宿は"近代化の申し子"ともいうべき繁華街として発展していく運命を背負わされていたことになる。 |