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大正12年9月、関東大震災後の電車の混雑ぶり
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より
(『東京震災録』より) |
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「大震災記念」の立て看板と
お客さまでにぎわう中村屋(大正末期)
『中村屋100年史』から |
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震災後、毎年9月1日に特価で
地震パンなどを販売する中村屋の店頭
『中村屋100年史』から |
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このような歴史的必然を背景に、関東大震災がきっかけになったとはいえ、恐るべき勢いで増加した需要層に、新宿大通街は具体的にどのように対応していったのか。
前述のとおり、新宿は関東大震災そのものではほとんど災害をこうむっていない。ということは、東京旧市内の商店街がほとんど壊滅したこの時期、まず新宿は東京市民にとってきわめて重要な生活用品の供給センターになったということである。
とくに明治末から大正前半期にかけて、ある程度近代的な需要にも応える機能を備えつつあったため、殺到する需要に対しても、充分でなかったにしろ何とか応えられる情勢にあったといっていい。
たとえば食糧は、震災直後のパニック状態にあたって市民の買いあさりが激しく、新宿大通りの商店でも売り惜しんで暴利をむさぼった向きもあったようだが、中村屋の経営者・相馬愛蔵氏の記述からもわかるように、東京市内に販売先を失った卸売商たちは、かえって新宿からの需要に喜んで応えたという事実がある。中村屋では、"震災まんじゅう"と称するとりあえず量産できる食品をどんどんつくり、しかも通常の適正価格で売り出したことから、東京市民一般から非常な信用を受けた。これが、それまでの中村屋の知的エリートに対応するイメージを中産階級全体にたいするイメージに変えさせるきっかけとなった。こういった効果は他の業種についても同様である。というのも、ごく一時的なパニックが納まってくると、新宿周辺地区に蝟集していた中間層が、勤めに出るために整えなければならない身の回りのものが新宿で買い整えられるという需要が出てきたからである。
この時期、時計や帽子、洋服、洋品といった商品が急速に伸び、新宿大通りのこの種の店が、後年専門化していく資力を貯えるきっかけになっている。また最も象徴的なのは、大震災直後の10月、日本橋の「三越デパート」が追分交差点近くに、三越の出店としてのマーケットをもったことであろう。三越といえばすでにこの頃、百貨店としての地位も確立していたが、これが非常時とはいえ、とりあえずマーケットを通じての物資の供給を考えたことは、少なくとも大震災以前にすでに三越の首脳の頭の中に、山手以西の東京のキーポイントとしての新宿が意識されていたことを物語っていよう。
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大正12年の三越新宿マーケット
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より(中村屋提供) |
昭和初年の三越分店。
現在のアルタ(旧二幸)
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より
(『新宿駅80年のあゆみ』より) |
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昭和5年に開店した三越新宿支店。
当時は日本一のビルとされていた
新宿歴史博物館提供(三越提供) |
昭和6年頃のほてい屋右手前の建物は、三越前身の新宿デパート 、遠景ビルは三越(後の二幸。現アルタ)。右手建築中のビルは新宿日活。明治通りはまだなかった
新宿大通商店街振興組合刊『新宿大通り280年史』より(『大東京写真帖』より) |
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そしてこの反響をみたうえで、大正14年、国鉄の新宿駅舎が青梅口に本格的に舎屋を開設するのに合わせ、その駅前正面になる現在二幸のビルで支店を開設する。未確認であるが、この時期に駅前に百貨店ができた最も早い例ではないだろうか。いずれにしても新宿の購買客は、常に電車に乗ってやってくる客だという、後年のターミナル駅を中心とした繁華街の性格を見抜いた上での商策だったことは間違いない。
ところが事実は、こういった三越側の判断を上回っていた。大正14年、新宿における第二番目のデパートとして追分角に「ほてい屋百貨店」が進出してくるが、新宿大通りの西端に位置する新宿駅から吐き出される人波はまるで津波のうねりのように、新宿大通りを東に向かって終日動いていくようになるからである。三越としては、地の利の有利さを上回って手狭なためのネックが出てきており、数年後、本格的な百貨店建築の現在地に移転(昭和5年)している。
いずれにしても、その当時からごく最近に至るまで、百貨店があるところが繁華街だといったイメージがあるとするなら、大震災後二、三年を経ずして新宿はいわゆる繁華街となり、その勢いは昭和2年に京王電車が新宿二丁目に社屋をつくったのをきっかけに、松屋デパートを開店させ、さらに最終的には昭和8年ほてい屋の隣に「伊勢丹デパート」を進出させるところにまで進んでいる。
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昭和5年の松屋と京王新宿駅
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より
(京王電鉄提供) |
伊勢丹
新宿歴史博物館刊
『常設展示図録』より |
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同一地域に四つのデパートが店を張るといった事態は、少なくとも戦前にはこの新宿だけであり、いかにこの新宿がいわゆる中産階級を対象とした一大商業センターであったかを想像させるところである。
もっともこのデパート競合に関する限り、新宿三丁目にあって京王沿線の客を主体にするのみで、国鉄新宿駅からの人の流れを充分にひっぱりきれなかった松屋が、数年ならずして撤退し(店舗が借家のためデパート間の安売り合戦に耐えられなかったともいわれている)、伊勢丹と隣り合わせで競合したほてい屋が、経営内容のびん乱から伊勢丹に吸収合併(昭和10年)される形となり、最終的には戦線の収束をみた。ただ生き残った二つのデパート、三越と伊勢丹についてみても、そこに商戦略上の多少のニュアンスの違いがみられる。
三越には日本橋本店が築いた企業イメージ、すなわちある程度高い社会階層に対応して、全国的な知名度で売るといった性格があり、この新宿支店でも本店の巨大なイメージの傘から抜けられなかった傾向がある。つまり三越の顧客になる層は、支店より本店での買い物を喜ぶといった傾向を免れない。
それに比べてもともと新宿での購買層は、三越本店の層よりもうひとつ下の社会層が主力であり、これに対応したデパートの企業イメージをとったのが伊勢丹だということになる。その点は、当時の百貨店の主力商品であった呉服物についてみても、三越の顧客の主力は上流社会またはそれに準ずる階層であったのにたいし、伊勢丹の顧客は花柳界が中心であったということからも推測される。「日本橋の三越」にたいして「新宿の伊勢丹」と一般的に印象づけられていくのは、呉服のような特定商品でない部分、いいかえれば新宿後背地の中間層を対象とする日常性の強い商品の売り場がその売上げを伸ばしていくときからである。
もちろんこのようなデパートの登場に対して、新宿大通りのその他の店の変化も、まずは新宿駅寄りに現れ、この地域が場末町の駅前商店街といった雰囲気を完全に一掃することからはじまっていた。
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