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江戸時代の「追分」
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新宿区立新宿歴史博物館刊
『常設展示図録』の表紙
『甲州道中分間延絵図』逓信総合博物館蔵
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現在の新宿3丁目交差点舗道に追分の図絵がある |
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現在の新宿3丁目交差点舗道にある「追分」道標 |
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「追分」の位置となる、現在の新宿3丁目交差点 |
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都市の発展は、特別な意図で人工的に計画される場合をのぞくと、一般に、「点」から「線」へ、「線」から「面」へと成長していくものといえる。新宿の場合も、その例外ではない。新宿ももとはといえば、江戸時代の主要陸上交通であった五街道(東海道、中仙道、日光道、奥州道、甲州道)が置かれ、その中の甲州道と青梅道の分岐点となったのが、はじまりである。
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五街道 |
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当時の甲州道といえば、四谷見附を出るとほとんど民家もなく、武蔵野の広野と森林の中を縫って走る道だった。甲州街道と青梅街道の分岐点にあたる「追分」には、確認できないものの茶店があったという説がある。いわば、これが新宿大通り発祥の「点」であろう。
日本橋を起点とした甲州街道三十三宿の最初の宿駅は高井戸宿であり、この間がほかの街道に比べて非常に長く旅に不便なことから、中間地点である「新宿」に宿駅をつくったという経緯がある。
この時代、いわゆる旅籠が許されない時代であったとしても、茶菓のサービスをする茶店ぐらいは、自然発生的に見られたはずである。他の街道の例をみても推測できる。また、現在の新宿の追分交差点近くのだんごや和菓子の店は、もちろん後代のものではあるにしても、江戸時代に見かけられた茶店のイメージが残されたものだといえる。
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