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内藤新宿 『新宿名所いまむかし』から『江戸名所図絵』 |
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四谷大木戸 『新宿名所いまむかし』から『江戸名所図絵』 |
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新宿の「点」から「線」への時代は、いわゆる新宿大通商店街の形成時代ともいえる。「新宿」という名称をはじめて歴史に登場させ新宿の「街」づくりのきっかけとなったのは、「内藤新宿」の誕生である。これに際して、浅草阿部川町の名主高松吉兵衛が中心になって、宿駅業者(主として旅籠に女を置いて接客業を営むもの)と談合のうえ、江戸幕府にこの旨を上訴して入れられ、元禄11年(1698年)に宿駅としての設置が許可された。
この宿駅が、内藤新宿と称されたのは、四谷大木戸外のこの地が高遠藩主内藤氏の下屋敷に含まれていたのを、幕府が内藤氏に返上させうえ、これを下賜した形をとったためである。新宿と称されたのは、甲州道三十三宿の設置ののち、97年後にしてはじめて設けられた新しい宿という意味からである。本来なら、内藤宿とでもよぶべきところだったのであろうが、もしそうだったとしたら、今日の「新宿」の呼称は生まれなかったことになる。
新宿という宿駅は、他の街道が制定と同時に宿駅を設置されたのとは違い、約一世紀遅れて置かれたということは、江戸幕府にとってこの内藤新宿はどうしても宿駅を置かねばならないほどに必然性を感じられる宿ではなく、できることならつくりたくないものだったのではないだろうか。他の街道が日本全国に通じる道であるのにたいして、この街道は甲府を終点にした比較的ふところの浅い行き止まりの道である。いざというときの徳川氏の退却路であり、甲府は最後に籠城すべき城という役割を与えられ、その沿道の地域をすべて旗本もしくは譜代大名の所領によって固めている。いうならば、幕府としては沿道を開発して、敵の侵入を容易にすることをのぞまなかった道なのである。
したがって、内藤新宿は江戸のターミナル宿駅機能よりは、もともと歓楽街としての性格がより強く、とくに江戸時代の性の歓楽地の配置をみると、非公認の岡場所はともかく、公認のものは、板橋から品川にかけてその中間にあたる新宿だけであるから、相当な需要があったと思われる。武家屋敷に占領された東京の山手地域のはずれにある内藤新宿が、武家たちの下級層ないし二、三男坊、つまり今日のサラリーマン階級を主な顧客にしていたということが興味深い。
こうした現象は、新宿が急増するサラリーマン階級によって支えられ、成長するのと軌を一にしており、すでにこの時期に新宿の街の基本的性格のひとつは形づくられていたといえる。
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