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昭和24年2月、新宿駅前
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より(朝日新聞社提供) |
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昭和25年から35年までは、わが国にとっても、新宿全体にとっても、太平洋戦争前のレベルに追いつき、追い越していく時代である。
新宿は、わが国の近代化における発展の規模を映す鏡のようなところがあるが、実は戦後の復興の場合にもきわめて恵まれた条件をもっていた。
例えば、戦前の東京の人口分布をみると、敗戦直後の状態は、新宿区も含めて山手環状線内部と浅草、両国、深川の下町にかけて、すべてが戦前の人口のピーク時に対して三分の一から四分の一に激減している。これに対して、新宿の後背地ともいうべき世田谷区、杉並、練馬といった区はせいぜい一割減であり、若干、中野、豊島両区の影響が多かったとはいえ、山手環状線ほどのものではない。しかもこの地域の人口は、早くも昭和22年に戦前をオーバーする勢いを示している。
いわば新宿は、戦前の繁栄を支えた需要層をそっくりそのまま温存していたということであり、それらの層は新宿の回復が一日も早いことを待ち望んでいた。だからこそ、いわゆるヤミ屋街のエネルギーにあふれたヤミ物資にはじまり、食糧をめぐる喧騒が生まれ、ついでヤミの飲み屋街が台頭し、昭和22年末頃には、新宿大通街にもほぼバラックが出揃う状態になった。その点では、東京都内のどの繁華街よりも早く、盛り場の様相を呈したのは確かである。
しかし、新宿大通街についていえば、物販を主とする街区だっただけに、売るべき商品がなさすぎたことは否定できない。当時の新宿大通りの経営者たちに聞く、商品仕入れのやりくり算段や、それと平行してバラックから本建築にかからねばならないという苦心談には、それぞれに語り尽くせない多くのドラマが込められている。
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昭和20年代前半、衣料切符が
必要な頃の伊勢丹の広告(1)
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より(伊勢丹提供) |
昭和20年代前半、衣料切符が
必要な頃の伊勢丹の広告(2)
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より(伊勢丹提供) |
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ともあれ、復興の一応の形が整えられるのが、昭和24年から25年である。東京都および区の戦後の都市復興事業もようやく着手された。
なかでも、三丁目から新宿駅前にかけて都電が廃止された跡が、「グリーンベルト」として活用されたことが見逃せない。完成は昭和26年であるが、何よりもこれが新宿大通りに与えた効果としては、第二次世界大戦後、非常な活気はあるもののヤクザが仕切る怖い街でもあるといった一般のイメージに対して鮮烈なものがあった。単に新宿の街を美しくデザインするというだけでなく、まだ望んでも望めないと思っていた近代都市での近代的な生活に対する渇望が、ひとつの形をとってそこに現れたと、東京の住人、とくに山手から新宿後背地の需要層に与えている。そしてその印象が、少なくとも新宿大通りについては、安心できる明るい街になったことを心理的に思わせたのである。
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都電が協和銀行(現りそな銀行)脇から
靖国通りへ向かうようになり、
都電の線路撤去跡がグリーンベルトになる
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通280年史』より |
グリーンベルトで新装になった新宿大通り
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より
(東京都『露店』より) |
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もちろんこのような効果は、新宿大通街の商店すべてに通じる願いであったに違いない。アメリカ軍の軍楽隊を招いて華やかな花自動車のパレードを行ったり、フォークダンスの会を開くなど、わが国で新しいタイプの祭り、カーニバルをはじめて行ったという点でも注目される。
もともとこのグリーンベルトの計画が生まれたとき、施工までは区が行うが、その維持管理には地元があたるといった案が固まり、その維持費を地元の商店街が負担することになったという経緯がある。つまり、新宿駅から新宿三丁目およびこれに隣接する新宿二丁目の一部がこれに関係することになり、これに関わる商店会は、グリーンベルトが機縁になって合併の気運が生まれてきたといっても過言ではない。
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グリーンベルトができた頃から商店会の
活動が活発になる。
新宿大通りの七夕まつり装飾(伊勢丹前にて)
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より
(『歴史写真』より) |
昭和27年、グリーンベルトに立てられた
新宿商店連合まつりの装飾
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より |
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