こうして、新宿が名実ともに近代都市の繁華街としての態勢をつくるうえで、新宿大通街全体がくぐらなければならない性質の問題に直面することになる。昭和30年に起こった新宿駅舎の改装を機会に、百貨店の高島屋がいわゆるターミナル・デパートとして進出しようとしたこと。また31年に売春防止法が制定されて、新宿の遊郭が廃止されることから生じる問題。さらに32年に着手された地下鉄丸の内線の工事などがそれである。
高島屋の進出問題についていえば、もともとは、すでに老朽化して新築を迫られている新宿駅舎の近代化を課題として起こっている。ただこの場合、国鉄は民間資本と合同で建設することの有利さ、つまりすでに東京駅八重洲口で採用していた方式をとろうとしたところに、難しい問題を生じさせた。東京駅の場合、その周辺に有力な繁華街がなく、駅の利用者が長距離客を主力にしているため、かえって有効な施策であったのに対し、新宿の場合は、通勤客のターミナル駅をひかえることによって発展してきた繁華街という実績が問題となった。
このときの反対運動は、新宿大通商店会を中心に、新宿、渋谷、世田谷、中野、杉並の各区、少し遅れて豊島区も含めて、ほぼ当時の新宿後背地の全域に及び、これらの地域の商店会が「新宿駅舎百貨店進出反対期成同盟」に結合した。
具体的な問題解決の過程は、反対期成同盟の「運動経過報告書」(昭和32年10月3日発行)に詳しい。当時の社会通念としては、個人的企業の多い小売商業界のまとまりの悪さは、一種の常識だとされていたのだから、東京西郊における商業分野での大衆運動といった形での運動は、それだけ強い危機感をアピールして、きわめて有効なものとなった。当時の国鉄が中立的な立場をとり、政治家たちも反対期成同盟の意向を無視できず、これを尊重する立場に傾いたのもそのためである。しかも重要なことは、こういった情勢のなかで、反対期成同盟の側から、民衆駅建設促進のための具体的な代案がだされたということだろう。新宿経済会議所が主催して委員会をつくり、基本的には公共性の強い施設を主張する地元案となっている。これが、国鉄や高島屋を話し合いのテーブルにつかせた土台の役割を果たしたのである。もちろん、これに対して高島屋側も対案を示しているが、結局は民衆駅としての公共性という主張に、大きく席をゆずらざるを得ず、新宿駅進出の実質的なメリットを失って席を降りることとなる。
しかも公共性の建て前が地元ペースで進められたため、最終的には当初の計画より地元商店の出店に多くのスペースを割くという利益の地元還元方式で決着した。この問題以降、新宿は各地につくられる民衆駅のモデルケースになった。
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昭和30年代の新宿駅東口附近
(新宿の民衆駅ができる前)(1)
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より(小林達夫氏提供) |
昭和30年代の新宿駅東口附近
(新宿の民衆駅ができる前)(2)
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より(小林達夫氏提供) |
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