少なくとも昭和35〜6年頃までの新宿は、流入人口こそすでに日本で最も大きい繁華街になっていたが、飲食・娯楽の比率に比べて、新宿大通りの最も重要な役割である物品販売のウエイトはまだ決して大きいものとはいえない。ようやく均衡してくるのは、それ以降になってからである。
こういった情勢を背景にしていたためか、この時期の大通商店会の活動には、大売出しに関連した事業に熱心なものがある。またそれが、最も成功した時代でもあった。
やがて昭和35年、はじめてのヤミ米が配給米の値段を下回り、さらに新宿大通街での食堂不振の例と合わせて考えると、新宿での最も標準的な大衆の消費性向が、食べ物以外の物品にウエイトを移してきたことを示す指標となる。
|
|
|
昭和30年から43年の間、
明治通りを走ったトローリーバス
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より(小林達夫氏提供) |
昭和30年頃の紀伊国屋附近
新宿大通商店街振興組合刊
『新宿大通り280年史』より(早川亭提供) |
|
|
|