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新宿大通りの歴史
序章
第一章 江戸時代
第二章 明治・大正
第三章 戦前・昭和10年前後
第四章 戦時中〜昭和三十年代
第五章 〜現代
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新宿大通りの歴史

第一章 江戸時代 草創期の新宿
[1] 発祥の「点」は追分の茶店
[2] 江戸の宿駅「内藤新宿」
[3] 旅人、遊客相手の茶屋が軒をつらねる
[4] 近郊農民を対象にした店も出てくる
[コラム] ●「江戸近郊農村」●「角筈村」


[3] 旅人、遊客相手の茶屋が軒をつらねる

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新宿区立新宿歴史博物館「内藤新宿復元模型」
新宿区立新宿歴史博物館「内藤新宿復元模型」
新宿区立新宿歴史博物館「内藤新宿復元模型」
新宿区立新宿歴史博物館「内藤新宿復元模型」
新宿区立新宿歴史博物館「内藤新宿復元模型」
新宿区立新宿歴史博物館「内藤新宿復元模型」

 内藤新宿は、現在の四谷大木戸門から伊勢丹あたりで、当時の道幅は約10メートル。大通り全体を四谷大木戸から下町、中町、上町と順に区分して、道の両側に旅籠、人馬の手配をする問屋、茶屋、蹄鉄屋、わらじその他の旅装をととのえる町屋などを並べている。大店ほど四谷寄りに位置を占め、当時の店の経営者たちは、一軒でも四谷大木戸寄りに店を移すことを生涯の望みにしたという。これは、当時の新宿の繁栄が、あくまでも江戸寄りを中心に営まれていたことを物語っている。

 宿場町であり場末の歓楽街であった新宿の発展の過程をみていくと、はじめに公許されて約20年間続いた新宿の旅籠の数は、その廃止時期に30軒たらずとなっている。これが、再開時に38軒、27年後の寛政11年には52軒となり、幕末に至るまで漸増している。この他、旅人、遊客相手の茶屋がほぼ同数の割合かそれを上回る割合で増加しているから、1800年代の内藤新宿の大通り筋は、すでにこれらの店によってほぼ軒を埋められていたと推定される。


名所江戸百景 四ツ谷内藤新宿 歌川広重(初代)画 魚屋栄吉板 安政4年(1857年) 新宿区歴史博物館蔵 江戸時代の「追分」
名所江戸百景 四ツ谷内藤新宿
歌川広重(初代)画 魚屋栄吉板
安政4年(1857年)
新宿歴史博物館蔵
江戸名所道外尽四十九 内藤志ん宿
歌川広景画 辻岡屋文助板
文久元年(1861年)
新宿歴史博物館蔵
 

 とくに注目されるのは、旅泊設備を持たず、遊興性に重点を置いた茶屋が他の宿場町より割合の多いことである。これはちょうど昭和時代に入って、カフェやサロン、キャバレーといった中産階級向けの遊興施設が、他のどの盛り場より新宿に多く見られるようになるのと同じ性格を示している。

 また、江戸という大消費地をひかえた新宿近郊の農村地帯が、都市近郊型の農業経営に早くから切り替わっていたということも見逃せない。武蔵野台地はもともと畑作に適した面をもち、畑の作物は江戸の日常必需品として換金性が高いことから、この地域の農民たちは、他の地域とくらべて現金収入の多い層であり、その現金が江戸市内に作物を持って行った帰りに新宿の歓楽街に落とされたという関係がみられる。


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[1] 発祥の「点」は追分の茶店
[2] 江戸の宿駅「内藤新宿」
[3] 旅人、遊客相手の茶屋が軒をつらねる
[4] 近郊農民を対象にした店も出てくる
[コラム] ●「江戸近郊農村」●「角筈村」

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