ともかくも、こういった形で落ち着いてきた新宿大通街の状況は、満州事変(昭和6年)から支那事変(昭和12年)にいたる、わが国全体の経済回復につれて、デパートと地元商店との対立関係も、次第に解消していったようである。ただ、新宿駅を基点として三越、京王本社につながる地下街案(昭和6年)や、新宿大通りから京王、ムーラン・ルージュ、新宿駅といった回廊式の地下道案(昭和8年)などが計画されたが、地元商店街の反対に合い、実現しなかった。
それにしても、大震災以来急激に環境が変化していくことに対して、新宿大通商店街は、さまざまな意味で街全体で考えなければならず、ようやく商店会の役割が重要視されるようになった。
ただ、残念ながら第二次世界大戦前の商店組合の具体的な活動については何ら記録するものがなく、「新宿大通商店街振興組合」の前身となる商店会の歴史を記録にとどめることはできない。新宿大通りにあった商店会は、新宿駅前から三越あたりまでの商栄会、新三会(新宿三丁目)、新二会(新宿二丁目)とあったわけだが、新宿高野の社史によると、高野吉太郎氏は家業のかたわら、近隣の店の問題について相談を受け、世話をすることも多かったとある。このような人物を中心にして、商業的にも活発化してくる気運に乗って、商店会が結成されたと考えられるだろう。
いずれにしても、こういった戦前の商店会には、ある程度親睦会的な要素が強く、日常的に情報を交換することと、一朝事あるときに地域のコンセンサスをつくる上で役立てられたはずである。例えば昭和6年頃の雑誌の記述に、「新宿のエネルギーのものすごさ、デカダンな遊興性の強さもさることながら、街景の中の街灯ひとつをとってみても、地域ごとにさまざまなスタイルがあって混乱をきわめている」とある。この文面から判断すると、街灯のスタイルは、各商店会ごとの違いだと推定される。逆に考えると、そういった形で商店会の活動が現れていたともいえる。
とくに、百貨店に対する対策、地下街計画に対する反応など、利害の一致した部分については商店会レベルでの合意があったものと思われる。戦後、都電が二丁目から歌舞伎町に路線を敷き変え、新宿大通の路線跡にグリーンベルトができたとき、この維持管理のための基金を伊勢丹が拠出して、実質的に今日の新宿大通商店街新興組合のスタートとなった。
それは、小菅丹治伊勢丹二代社長の意向が、「新宿の発展あっての伊勢丹だ」という考えによるものだが、昭和26、7年の商店会は、まだ主体的で有効な働きをしておらず、積極的にこれに参加するきっかけをつくったことは、やはり地元商店会との協同性を未来に託すことがいかに重要かを考えていたからだと思われる。裏を返せば、新宿大通りの各商店会が単なる親睦会や町内の管理組織といったものにとどまっていなかったことを物語っている。
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