大正前半には、新宿大通りの街景も洋風建築をはじめとする質的変化が反映されはじめた。とくに洋画専門館である武蔵野館の設立(大正8年)は、新宿の有志によってなされ、新しい性質の娯楽をはじめて新宿に持ち込んだという意味で象徴的である。
映画弁士の徳川夢声によると、この当時、館内の人いきれでのぼせそうになり、二階から人がこぼれ落ちるのではないかとヒヤヒヤした経験を語っている。大正半ば以降になると、洋画を好む新中間層がすでにかなりの数で新宿に集中してきていることがわかる。
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現在の三越のところにあった武蔵野館
(早川亭提供) |
内部の客席(早川亭提供) |
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大正4年における内藤新宿町と淀橋町との商業の内訳をみると、淀橋町の物品商が1227、料理店89、遊戯場・興業場が9。一方、内藤新宿町が物品商718、貸座敷288、旅館20になっている。明治三十年代半ばまでには、角筈区域に残っていた貸座敷(遊郭)がすでに消滅して、かわりに料理店が数を増やしていること、また淀橋地区の物品商の数が断然上回ってきていることが興味深い。このことは、明治四十年代以降大正期にかけて、内藤新宿町と淀橋町が機能的に異なる性質の町であったことをはっきり示している。
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明治末頃に明治通りの現松井ビル附近にあった呉服の大阪屋(山田歌子氏提供) |
大正10年頃に新宿大通りの東映附近に移転、洋品店となる(山田歌子氏提供) |
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大正末期の新宿大通り(『中村屋100年史』から) |
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