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明治39年、新宿大通りにできた日露戦争凱旋門。
右に耕牧舎の看板が見える(新宿区史より)
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もともと内藤新宿は、宿駅機能より歓楽性のウエイトが高い町であったが、幕末の混乱を過ぎたすぐ後、かつて旅籠だった遊郭が貸座敷として再出発し、江戸時代の繁盛を明治十年代に取り戻している。確かに武士階層の需要は失ったが、新宿後背地に拡がっている農村の農民層の需要、そして世情が安定したことによる遊山客の増大といった要素が遊郭街を支えた。ついで、明治十年代に入って発展した近代的な商工業からくる需要が付け加えられ、より一層隆盛に向かう。実のところ、明治時代を通じてこの新宿に直接関わりがない一般客の足を主体的に向かせる力は、内藤新宿の遊郭街以外になかったといってもよいだろう。もっともこの遊郭街は、大正10年の新宿大火を機に、現在の二丁目、新宿大通り裏で靖国通りにはさまれた一角の荒地にまとめて移転し、大通りの街景からは姿を消す。
これに対して、追分以西の商業街区にはもともと近郊農村の家々の日常品調達と、町自身の需要をまかなっていた小商人が多かったため、業種はあまり変動しておらず、大きな影響を受けずにやっていた。とくに明治10年頃までは、扱い商品そのものも江戸時代から引き継いだものであり、十年代以降も営業形態に変化は少ない。ただ、二十年代以降三十年代には、髪結い床にかわって理髪店が増え、帽子屋、ブリキ屋、本屋、医院、薬局、写真館などが近代の息吹を感じさせる。日清戦争から日露戦争にかけて、ようやく近代国家の体裁を整えはじめたわが国の、その構成員である中産階級がかつての武士階層の住宅地域に住みはじめた勢いが、新宿界隈に及びはじめたのがこの時期からである。
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明治42年当時の中村屋。新宿の現在地
(中村屋提供) |
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たとえば明治三十年代には、当時本郷にあったパン屋の中村屋が新宿周辺の行商や配達量が多くなり、しかも年々増大していくことから、新宿進出を決めた(明治40年)という経緯がある。これらの顧客から中村屋が後年、多くの文化人を集めて"中村屋サロン"といわれ、有形無形のかたちである種の文化的影響を与えるまでになっていくのも、新宿周辺部のこの支持層の要求を満たす店が生まれたことをきっかけにしている。
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明治42年、紀伊国屋の隣のメガネの三光堂
(三光堂提供) |
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大正2年当時の高野商店(高野提供) |
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この新宿の変化が本質的なものであったことは、明治39年に新宿駅舎が甲州口(現在の南口)に建ち、新宿大通りに直接面することがなくなったにも関わらず影響を受けることがなかったことにも現れている。この勢いが爆発的になる関東大震災後の大正14年には、新宿駅舎が再び新宿大通りに面する東口に本屋舎を移している。新宿に対する新需要層の人の流れが、新宿大通りの商店街に一種のうねりをもって動いていくことに抗し切れなかったからである。新宿大通りの変化が、新宿駅舎を呼び戻したともいえるだろう。しかもこのとき建てられた駅舎は、東京や上野につぐスケールとデザインで、まだまだ場末町の雰囲気が強く残っていた新宿に内在していたエネルギーの爆発がいかに大きいものだったか、また将来予想される乗降客がいかに多く見込まれていたかを物語っている。 |